一喜荘時代 其の七(前置きの続き)
ヤンケのお母さんはお喋り好きで
どちらかというと大阪のオバちゃんみたいなところがあり
時折グサッと突き刺すような嫌味を笑いながら言う人だった。
教職を引退して口数少なく佇むお父さんとは真逆な性格で
肩身の狭い思いをしながら居候を続ける僕は
ご飯をお替りしながらも、心が折れそうになることが度々あった。
ならば、働いてやろうじゃないか。
少々でも食費を納めれば、少しは僕の気持ちも楽になる。
安易な気持ちから求人広告に載っていた新聞配達を始めた。
二日間、眠い目を擦りながら早起きして
配達ル―トと家を覚えるため先輩に付き添われて町を回った。
そしてようやく独り立ち(する筈だった)三日目の朝、
台風の直撃で暴風雨に見舞われた屋外へ出る覚悟が無く
布団に包まり無断欠勤して計画は頓挫した。
なんという駄目さ加減!今の僕はあの頃の自分に怒り心頭だ。
人間として成ってないではないか。ねえ。
これがきっかけとなり(家人の僕を見る目が明らかに変わった)
もうここには居られんだろうと腹を括り東京へ向かう決心をした。
殺人的に蒸し暑かった夏の間の二ケ月ほどを過ごした京都を出るため
帯広で知り合った東大法学部の彼と連絡を取り合い
ドリ―ム号で早朝の八重洲口に降り立った日へと繋がるのである。
京都を離れる日、ヤンケとミユキちゃんとで食事をした。
陽が落ちてから店を出ると(日曜だったのかな?)
狭い通りに人が溢れ、車なんて通れやしない状況の中を
一台の(いかにもオ〇クザさんが乗っていそうな)車が
徐行ながらも僕ら三人の脇を擦り抜けて行くと
「あぶないやないかあ!」ミユキちゃんが車の後部を叩く。
ゴ―――ン。
車のドアが開き、イメ―ジ通りの厳ついおっさんが現れる。
「車、叩いたの、誰やあ?」
反対側のドアからも厳ついおっさん登場、あわわわ。
ミユキちゃんが(怖いもの知らずで)前に出ようとすると
ヤンケがそれを遮り、オ〇クザさんの前に割って入った。
「わしらちゃう、わしらちゃうで」
しばらく睨みつけていたオ〇クザさんであったが
あまりにも人が多く、警察沙汰になることを嫌ったのか
捨て台詞を吐いて夜の向こうへと去って行った。
安堵・・
東京へ行く前にボコボコにされなくてよかったあ。
「あかんで、あんなことしたら」ヤンケが諭すように言うが
「あいつらが悪いんやんか」ミユキちゃんは腹の虫が治まらない。
そんなやり取りがしばらく続いた。
けど、彼女を守ろうとしたあの時のヤンケは格好いい。
ギラついた鋭い眼で、オ〇クザさんと対峙してたんだからね。
ミユキちゃんを大切に思う気持ちがよくわかった事件であり
いずれ二人が結ばれるであろうことを確信して
僕は彼らに見送られ、京都駅からドリ―ム号に乗り込んだのだった。
ところが・・
東京での暮らしに少しばかり慣れてきた或る日
悲壮感を漂わせ、ヤンケが突然東京にやって来た。
一喜荘時代 其の八 (喫茶ディランとヒッチハイク)
一喜荘から大森駅を挟んだ反対側にTENKOの実家が在り
ご飯を戴きに、僕は厚かましく度々訪れていたわけだが
そんな或る日の夜、偶然にもヤンケから電話があった。
「今、大森に居るんやけど、会えんか?」
なんだか神妙な口調、聴き慣れた声とは明らかに違う。
車で来てると言うので道順を伝え家の近くで落ち合うと
病魔に襲われたような生気の全く無い顔つきに驚いた。
なんでも、とあることからミユキちゃんと破局を迎え
自暴自棄となり前の晩から一睡も休憩もせず、
京都から(どこをどう彷徨ったのか)車を走らせていたらしく
気がつくと東京に辿り着いていたんだとか。
死んでもええわ!と、アクセルを踏み続けていながら
事故も起こさず僕らの前に現れてくれたのは幸いだった。
ヤンケのあれほど荒んだ姿は初めて目にしたけれど
何を語り何を聞いたのかさえ全く覚えてないのだけれど
「ミユキちゃんと、もういっぺん会ってみるわ」
そう言い残して、明け方近くに京都へ帰って行った。
それから暫くして(たぶん数ケ月後くらい)
「ミユキちゃんと結婚することになった。
足代を送るから、ぜひ祝いに来てほしい」
唐突にそんな連絡が来た。
後日現金書留が届き、中の手紙には
「すまん、一人分しか用立て出来なかった。
二人で来るなら足りない分は何とかしてくれ」とある。
当然、僕らは金も無く、思いあぐねているとTENKOが
「ヒッチで帰れば何とかなるから二人で行こう!」と言う。
ヒッチ・・いわゆるヒッチハイクのことである。
現実に、そんなことが出来るんだろうかと
疑心暗鬼のまま、僕らは電車で京都へと向かったのだった。
(式の様子は、いくら思い出そうとしても思い出せない。
うっすらとした記憶の中で、ミュキちゃんの投げたブ―ケを
TENKOが見事にキャッチしたような・・
そんなわけで、翌日のホテルのチェックアウト後を・・)
外はいい天気だった。
「せっかくだから大阪に寄って、難波のディランへ行こうよ」
金も無いのに、TENKOがそう切り出した。
ディラン・・当時、多くのミュ―ジシャンやア―ティスト、
役者連中が屯することで有名な喫茶店で
あちこちを渡り歩いた彼女も、何度か出入りしていたらしかった。
夕方に店を訪れ、ママさんと親しげに会話をする彼女のこと以外は
これまたほとんど覚えていないのは何故なんだろうか。
たぶん、僕は退屈してたんだと思う。
そして深夜、千円ほどしか残っていない二人の旅が始まる。
とりあえず、高速に繋がる幹線道路を歩いていると
通り過ぎた1台のセダンがカランコロ―ンと、
絵に描いたような音を立てホイ―ルキャップを落として行った。
反対車線まで転がって行ったそれを拾い、
気付いて停まっていた車に届けてあげると感謝しきり。
すかさずTENKOが「乗せてもらってもいい?」と尋ねる。
何処まで?と聞かれ、東京まで行きたいと答えると
「それは無理だけど、名神の入口までならいいよ」と快諾。
インタ―手前で降り、大型トラックに何度か合図を送ると
「眠気覚ましにちょうどいいや、名古屋まで乗りな」
親切で気さくな長距離トラックのドライバ―に拾われた。
そして名古屋近くのPAまで行くと、休憩中のドライバ―に
「こいつら、東京まで乗せてってくれる奴いないか?」
と、声を掛けて回ってくれた。なんていい人だ!
すると一人のドライバ―が「海老名までだったらいいよ」
手を挙げてくれたおかげで、僕らは無事に(無銭で)
家まで帰り着くことが出来たのだった。
一睡もせず早朝に一喜荘に戻った僕らは
疲れ果て、日が暮れるまで目を覚ますことはなかった。
72年頃、だったかな。
髪の長い痩せた男と、向こう見ずな女の怪しい二人連れを
気軽に(タダで)乗せてくれるドライバ―が居たという
そんな心温まる時代のことを書きたかったがために
ヤンケを題材にして、ここまで引っ張ってしまったわけなんです。
ヒッチハイク、
後にも先にも、僕はこれっきりの経験でした。