第七章 俺たちはヒーローなんかじゃないよ
三条堺町にイノダと云う喫茶店が在る。
京都市内に数軒の店を構え、店頭の大きなコ-ヒ-ミルが目印の老舗である。
京都に居た時分はこの店によく足を運んだ。
高田渡の『コ-ヒ-ブル-ス』に登場するこの店は、現代のスタバにも似た雰囲気を醸し出していて
一人で席に座ったとしても、違和感なくゆったりと過ごすことができる唯一の場所だったからだ。
本を読み、詩を書きながら、長い時間座っていたものだ。
舞鶴に到着した後、友人と落ち合った僕は岐阜の山中へと向かった。
交通の便も悪く、足元も悪い中を多くの人間たちと行進しながらようやくたどり着いたその場所は
主催者側発表では3万人、後に日本のウッドストックと呼ばれ神話化された『中津川フォ-クジャンボリ-』である。
野外のフリ-コンサ-トとしては当時の国内最大規模であり、
今で言うならインディ-ズであろう個人的に注目していたミュ-ジシャンを生で見られるとあって
田舎の少年は期待に胸膨らませてやって来たのだった。
しかし・・人で埋め尽くされた会場の劣悪さと、演奏のひどさに落胆した。
観客の求める熱気に対して、ステ-ジ上のミュ-ジシャンに覇気が無いのだ。
大衆は常に主導者を求め、英雄を作り上げようとするが、演じる側はそれを拒絶するかのようにシラケていた。
「俺たちはヒ-ロ-なんかじゃないよ」と言わんばかりに、気の無い演奏を繰り広げるだけだったのだ。
混沌とした60年代には、ビ-トルズやスト-ンズ、ボブ・ディランと云った音楽界のヒ-ロ-たちがいた。 我が国に於いても岡林信康が、無名時代のはっぴいえんどを従えロックの神様的に象徴されていた時代であり 多くの人々は、その幻影を確かなものにするためやって来たに違いなかった。 だが、当の本人たちは疲れていたようだし、英雄として奉られることを望んではいなかった。 いや、むしろ彼らは逃げ出そうとしてるようにも見えたほどで、
実際に岡林はその後農村に居を移し、畑仕事に従事して音楽界から遠ざかってしまった。 70年代はヒ-ロ-不在の時代だったのだ。 人々の嗜好性が広範になり、価値観も個々に判断基準を持つようになって、 ス-パ-スタ-の必要性は薄れてしまったのだろう。 さほど流行にも左右されなくなり、自分だけの対象を大切にするような傾向になっていた。 ミュ-ジシャンはと云うと・・おかしな表現だが、汗をかかなくなった。 泥臭さが姿を消して、都会的な洗練された音楽へと変わって行ったのもこの頃からだが、 フィリ-サウンドなどと言って、ブラックまでもがフィラデルフィアの綺麗なアレンジで変貌を遂げていた。 攻撃的な歌で、社会を変えられるような幻想を抱かせた時代は、終わったのである。 それ故、教祖の姿を追い求めてやって来た聴衆と、それを拒絶するミュ-ジシャンとの間に大きな溝が生じて ぎくしゃくした空気がフリ-コンサ-トを退屈なものにしてしまったのだろう。 フェリ-の長旅と、岐阜の山奥まで出かけたことで、僕は数ヶ月分の疲労を感じていた。 かつて経験したこともないほどの、蒸し暑い京都の夏が追い討ちをかける。 イノダの椅子に腰掛けても言葉が浮かぶことさえ無く、詩を書くこともまるで出来なかった。 変化が始まった矢先のこの時代を生き抜くための、独自の音楽スタイルを見出せずに悶々としていたからだ。
それは僕にとって、恐怖以外の何者でもなかった。 夏が背中で舌を丸めて嘲笑い出すと 乗り遅れやしないかと 僕は駅までひた走るんです 夏が肩で風を切って歩いていても 追われる者の臆病風は 自分の足を切り落とすんです まだ間に合うはもう危ないなんて 熱にうなされうわ言のように 繰り返す僕はしどろもどろさ 地べたに這いつくばって
にょろりにょろりと
汗を拭き拭き歩き出すと
コンクリートの街並みが
ぐにゃりぐにゃりと舞い踊るんです 「夏が背中で」1971年8月