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第五章 バラが咲いた


生まれ育った町に舞い戻る形にはなったけれど、家にはほとんど帰らずにいた。 たまに帰ったとしても朝方眠りに就き、陽が傾きかける頃になってようやく起き上がり

母親と会話することも、ごく稀なほどだった。 fanfanが家であり、集まる仲間たちが僕を大切にしてくれていたからだ。 つまらない歌であっても、新曲を披露するたびに皆んな喜んでくれたし ノリの良い曲ならリフが大合唱になるくらい、そこでの僕は(売れっ子?)だったのだ。 けれど、満足できない焦りが苛立ちとなって鬱積していたことも事実なのだ。 60年代はビートルズの出現によって、日本の音楽界をポップスへと導いて行った。 流行歌のサウンドも大きく変貌したし、GS~フォーク~フォークロックと段階的に進化した歌は 67、8年になる頃には日本語とロックのリズムが融合して、現在に繋がるスタイルを確立していた。 ただレーベルは大手ばかりで、ミュージシャンの側には冒険が許されなかったため サウンドプロデュースだけは現場のエンジニアが昔ながらに兼務していたのが実情だった。 だから‥音が悪いのである。 音質ではなくて、ベースやドラムの質感が甚だしく「悪い」のである。 楽器や音楽の分からない「技術屋さん」が、レベルメーターだけを頼りに音決めしていた時代が 我が国ではずっと続いていたことが背景にある。 衝撃的な登場をしたジャックスの1stアルバムでさえ、早川義夫のボーカルが無かったとしたなら ありきたりの「東芝の音」で終わっていたかも知れないのだ。 なぜこんなことを書き始めたかと言うと、それまでの常識を覆すレコードが69年に発表され それを機に国内の音楽シーンが急速な展開を見せたからだ。 今で言うとインディーズであろうその小さなレ-ベルはURCレコード。 伝説のアルバム、遠藤賢司の『Nyago』と、はっぴいえんどの『ゆでめん』のリリースである。 不思議な詩の世界と、海外にも引けを取らないほど明確で輪郭のあるサウンドに 田舎の少年はブッ飛ばされたのだった。 60年代は世紀末の様相を呈していて、音楽界も渾沌とした時代だった。 実験的なアルバムやミュージシャンが、幾つも登場して細胞分裂を繰り返した挙げ句 70年代に入ってようやく形が出来上がったと言える。 その時代に生きていた僕にとって、次の時代が見えてきたことに対する期待と焦燥感は 半端なものではなかったのだ。 『いつまでここに居るんだ、いったい俺はどうしたいんだ?』自問の連続だった。 早くしなければ取り残されてしまいそうで、1ヶ月もここで暮らすことに不安さえ覚えるようになってしまっていた。 そんなとき、偶然知り合ったあの二人との会話が、更に拍車をかけたことになる。が・・ 「どうだ、ずっとここに居ないか?」

或る日の開店前、ぼんやりカウンタ-に座っているとコウちゃんが声をかけてきた。 約束の1ヶ月をあと1週間ほど残した頃だったろうか。 「ここに住んでいても歌うことに変わりはないだろ?みんなオマエのこと好きだし‥」 気持ちはよく分かっていた。 僕もみんなのことは大好きだったし、待遇だって良かったのだから。 けれど、大阪や東京に吹き始めた新しい風を、どうしても肌で感じてみたかった。 時代の波に乗り遅れやしないかと焦る心は「若さ」の特質なのだろう。 「コウちゃんごめん、オレどうしても行ってみたいから」 一瞬寂しそうな目をされたが、すぐに柔らかな笑顔に戻った。 「‥だよな、無理言って悪かったな」 カウンターの中に入り、買って来たばかりのフルーツを洗い始めた彼の目は 手元ばかり見つめたまま上を向くことはなかった。 素敵な仲間たちに囲まれていながら、僕は自分のことしか考えてないようで 後ろめたさに苛まれながらも決心を翻すことは出来なかったのだ。 そして最後の夜がやって来た。 店内は満席状態で、夏前だと云うのに汗ばむような賑わいだった。 常連のほとんどが顔を揃え、知魅さんを筆頭にみんなが集まってくれていた。 記念にライブレコーディングするらしく、床に数本のマイクスタンドが立つ中で いつものように早いビートでリズムを刻み始めると、ハナから全員が歌い出した。 気狂いになろうぜ 気狂いになろうぜ 飲めや飲め飲め まあ飲めや なんでえ~女の一人や二人 ここで騒いで忘れっちまえ 「気狂いになろうぜ」1971年6月 みんなが一番喜ぶ歌だった。 嫌なことは全部帳消しに出来るくらいの勢いで、この夜のライブはスタートしたのだ。 暫くすると突然知魅さんの父親、高村社長が夫人を同伴してやって来た。 宴席の帰りなのか、珍しく酔っているようだったが席に着くなり大声でこう叫んだ。 「かずら君にリクエスト!マイク真木のバラが咲いた!!」一瞬、店内に居た誰もが息を飲んだ。 ここでの僕は他人の曲のリクエストなど受けたことが無かったし ましてや僕の大嫌いな「フォークソング」の代名詞みたいな歌だったからである。

社長だって知ってる筈なのに、嫌がらせか? どうするんだ、歌うのか歌わないのか?‥皆、息を殺して成り行きを見守っていたことだろう。 次の瞬間、弦が切れそうなほどのピッキングで僕は歌い始めた。 「バラが咲いたア!真っ赤なバアラア!!」 アドリブでメロを変え、ビートの上に乗っけて叫ぶように歌い出すと さっきまでの沈黙が嘘のように、手拍子と歓声が上がった。 みんな、僕が勝利?したことを実感しながら嬉しそうに社長の方を向いた。 わずか1分半ほどで手短かに歌い終えると再び社長が叫んだ。 「かづら君!そのセンスと才能を失わないでくれよ!!」 社長もまた、子供みたいな笑顔を見せながら 一杯だけぐいっと飲み干して、縺れた足取りで店を出て行った。 こちらの反応が予想した通りで、きっと彼も安心したのだろう。 帰りしな、奥さんがこちらを見ながら軽くウインクしてくれた。 たぶん社長流の、遠回しな激励とお別れのつもりだったに違いない。 店の灯りを半分消して、コウちゃんがママから預かってきた封筒を手渡された。 「10万くらい出せると思ったんだけど、半分になっちゃった」 申し訳なさそうに差し出された封筒には万札が5枚入っていた。(大卒の初任給が3万を切る時代である) 「十分だよ、大助かりだ。ありがとう」

ほとんど会話らしいものも無いまま、僕らは店を閉めて別れ 荷物を整理するために10日ほどぶりに家に帰り、泥のように眠った。 ここ数カ月の目まぐるしさからか、とてもとても疲れていたようだ。 帰りたくない家ではあっても、誰よりも心配しているだろう母のことを考えると 胸が痛んだが、泣き出す前に深い眠りの底に堕ちて行った。




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