第三章 ウエストサイドストーリーとミスタータンブリンマン
時代は少々前後してしまうが、音楽との出会いに触れてみよう。 小学校低学年の頃から歌は大好きだった。
ただし渋い流行歌ばかりを好んで歌っていたようで、水原弘の「黒い花びら」や
フランク永井の「有楽町で逢いましょう」とか、果ては三橋美智也の「古城」まで、
鼻をたらした小僧が歌詞の意味さえわからないまま歌う様はさぞかし異様な光景だったことだろう。
けれどラジオから聴こえて来るその時代の流行歌はポップスそのものであり、当時としてはそれが必然だったのかもしれない。 洋楽を初めて耳にしたのは、姉の買って来たレコ-ドだったと思う。 いま思えば、詩や音楽に携わるようになったのも姉の影響からだったのだろう。 彼女には文才があり、さまざまなコンクールで入賞して地元では有名な存在だった。 部屋には無数の書籍が積み重なり、思想も理論も頑固なまでに自分の信念を曲げない人でもあった。 我が家に初めてレコードの音が鳴り響いたのも、彼女が購入してきたアルバムだった訳で 特に「ウエストサイドストーリー」は耳にタコが出来るほど聴かされた。 おかげで僕は「ボオイ、ボオイ、クレエジッボオイ、ゲックーボオイ」と言った具合に 10歳頃には謎の片仮名を頭に描きながら「COOL」を歌うようになっていたほどだ。 「トゥナイト」や「アメリカ」も同じように覚えては歌っていた。 ただ、明るい曲はそれだけで、他はどれも西欧の悲しく切ないメロディの曲ばかりだった。 「鉄道員」や「メンデルスゾーン作品64番」など、当時の映画音楽やクラシックが主だったが 音溝が擦り切れそうなほど繰り返し聴いていた彼女の傍で、メロディの殆どを覚えてしまったことは言うまでもない。 僕が中学に入った頃、彼女は家を出て東京で文筆業を始める。 一人になって、孤独な時間を紛らすために姉の書棚に残されていた本を数冊めくってみたが どれも難しすぎて、読む気の起きない物ばかりだった。 ただ、唯一の漫画同人誌「ガロ」を見つけて、つげ義春の「ねじ式」を夢中で読んだ。 後年、はっぴいえんどの1stアルバム『ゆでめん』が世に出たとき そのジャケットに執筆者の一人である林静一のイラストが使われていたことから 当時はまだ無名だった彼らの存在に、いち早く気付く要因となったのも不思議な縁であろう。 けれどそれはかなり後の話であって、65年当時の我が国のミュ-ジックシ-ンと云えば ラジオから流れるのはエレキバンドのテケテケ音くらいしかなかったほどつまらない状況だった。 そんなときに現れたのがRIEKOである。 地元のガソリンスタンドの社長令嬢だったRIEKOが、洋楽のレコードを何枚も貸してくれたのだ。 お約束のビートルズと共に、当時ヒットしていた曲を幾つも聴くことが出来た僕は バーズの「ミスタータンブリンマン」と「ターンターンターン」のカップリングEP盤を夢中で何度も聴いた。 その頃の田舎でメジャーだったのは、ベンチャーズを筆頭にしたインストバンドばかりだった時代なので 如何に洋楽通であったとしても周囲の殆どは知らない歌だったに違いない。 中2の秋に初めてバンドを組んだときも「パイプライン」や「ワイプアウト」を演奏することなく のっけから(歌もの)をコピーしてはパーティーの前座で歌ったりしていた。 言葉を忘れてしまうような環境に慣れてしまい、すっかり無口になっていた僕にとって 音楽、とりわけ「歌う」という行為で自身を表現することに目覚めた喜びは、とても大きかったのだと思う。 やがて高校へと進んだ僕はエレキギターをアコースティックに持ち替えて、自らの言葉で歌を書くようになって行く。 前述のRIEKOとは高校も同じだったが、とある事で僕が別の女性と付き合い始めた頃から疎遠になってしまった。 センスの良い音楽を提供してくれたり、僕が演奏するときには必ず駆け付けて応援してくれたり お互いを一番よく理解していた筈なのに、二人とも偏屈で素直ではなかったことが 意に反してお互いの距離を遠ざけてしまったのかもしれない。 ただ、自由で恵まれた生活を送っているように見えた彼女も イイトコのお嬢様であることから、厳しい母親の目がいつも光っていたことも無縁ではなかっただろう。 町を離れるときのラストコンサートにも彼女はやって来なかった。 本当は誰よりも来て欲しかった存在だし、以前なら必ず客席に居た筈の彼女だが その夜は現われることなく幕は閉じた。いや、むしろこれで良かったのだろう。
多少の未練がましさはあったとしても、きれいさっぱりと洗い流して、この町を後にできたのだから。 さよなら さよなら 明日この街を出ようかと思います きっと君は来ないだろうから 僕は一番列車の汽笛になります さよなら さよなら 小っちゃなつまらない街だったと思います 何故って愛した人はひとりだけ
僕は一番列車の蒸気になりました 「さよなら」1971年3月